腸チフスの家政婦、メアリー・マローン

『腸チフス』は、感染症法第3類に分類されます。

感染症第3類は

感染力および罹患した場合の重篤性に基づく総合的な観点からみた危険性は高くないが、特定の職業への就業によって感染症の集団発生を起こしうる感染症で、患者および無症状病原体保有者について就業制限等の措置を講ずることが必要

とされており、簡単に言うと

『感染しやすいわけではないけど職種によってはたくさんの人にうつしてしまうので、感染してしまった場合は人に感染させやすい職種に就かせないようにすることが必要』

で、腸チフスの他には、コレラ・細菌性赤痢・腸管出血性大腸菌感染症・パラチフスが第3類に分類されています。(腸チフスとパラチフスは以前は第2類)

主な感染ルートは、『経口感染』で、食べてしまうと感染します。

『共同社会の組織的な努力を通じて、疾病を予防し、寿命を延長し、身体的・精神的健康と能率の増進をはかる科学・技術』を『公衆衛生』といいます。

その内容として、『環境衛生・感染症予防・健康教育・医療・介護サービスによる疾病の早期診断と悪化防止・衛生行政・医療制度、および社会保障』があります。

公衆衛生の重要性を示す例として、『腸チフスのメアリー』の話があります。

メアリー・マローン(1869‐1938)は、アイルランド出身の女性。

14歳でアメリカのニューヨークへ移住し、料理の才能を発揮して住み込みの料理人兼家政婦として働いていました。

その頃、ニューヨークでは腸チフスの小規模な流行が発生していました。

腸チフスについて

腸内細菌科サルモネラ属の細菌で、感染源が人間に限定される宿主特殊性があり、人間の糞便で汚染された食物や水が媒介します。

補足:チフスには『腸チフス』『パラチフス』『発疹チフス』があり、腸チフスとパラチフスはヒトからヒトへ感染(腸チフスよりパラチフスのほうが軽症)、発疹チフスはネズミなどに付着したダニやシラミが媒介するリケッチアにより感染

世界では一年間に2690万人が罹患しており20万人が亡くなっています。

衛生水準の低い開発途上国で発生し、日本では海外旅行した人が感染する例が年間20~30例ほどあります。

『海外旅行をしていない腸チフス患者』『飲食店での腸チフス食中毒の発生』により50例ほどに増加する年もあります。

症状は、7〜14日の潜伏期間を経て、まず発熱・頭痛・食欲不振・全身倦怠感が出てきます。

発熱は、日内変動が1℃以内の高体温が持続する『稽留熱(けいりゅうねつ)』が特徴で、40℃に達します。

他には、腸チフスの3主徴とされる比較的徐脈(脈拍数が毎分60以下)・バラ疹(小さく赤い発疹)・脾腫(脾臓の肥大)・『チフス性顔貌』=無欲状顔貌(表情に眼光が鈍く表情に活気がない)がみられ、下痢または便秘、重症時には意識障害、難聴になることもあります。

その後、弛張熱(しかんねつ:持続的に高体温が持続し、日中変動1℃以上)を経て体温が下がり回復しますが、治療をしない場合2~3週間で重篤な腸出血や腸穿孔(腸壁に孔が開き腹膜炎を起こす)などの命にかかわる合併症を起こすことがあります。

治療には、細菌のDNA複製に必要な酵素を阻害して増殖を妨げ殺菌するニューキノロン系抗薬を使用します。

しかし、近年はニューキノロン非感受性菌が60%、特に南アジア由来では95%を超えているため、酵素阻害は同じですが、別の薬(第三世代セファロスポリン系抗菌薬・アジスロマイシンなど)を使用します。

予防法として、世界的には弱毒生ワクチンと不活化ワクチンが実用化されていますが日本では認可されていないため、腸チフスワクチン接種を受けられる医療機関が限られています。

ただしワクチンを接種しても予防効果は100%ではありません。

メアリー・マローンは、どういうルートかはわかりませんが、腸チフスに感染していました。

しかし、不思議なことに発症しませんでした。

これは『不顕性感染(ふけんせいかんせん)』といって、ウイルスや細菌に感染しているのに発症していない状態です。

本人はまったくの自覚症状がない健康保菌者であるために、気付かずに病気を伝染させてしまうという危険な状態です。

ちなみに、この不顕性感染で、現在日本で問題になっているのが『風疹』です。

妊娠10週までに妊婦が初感染すると、風疹ウイルスが胎児の細胞分列を抑制・破壊し90%の胎児が『先天性風疹症候群(CRS)』になり心疾患・難聴・白内障などを発症、関節炎・血小板減少性紫斑病を合併、急性脳炎を起こすこともあります。

風疹はワクチン接種が唯一の予防法ですが、日本では、接種の空白期間があり、

・1979年(昭和54年)4月1日以前に生まれた男性
・1962年(昭和37年)4月1日以前に生まれた女性
・1979年(昭和54年)-1987年(昭和63年)生まれの男女
・1985年(昭和60年)-1995年(平成7年)生まれの男女

が未接種かつ不顕性感染のおそれがあります。

なおワクチンを接種していても、再感染する場合もあります。

今は不顕性感染が広く認知されていますが、当時は知られていませんでした。

メアリー・マローンが雇われる家を変える毎に、そこで腸チフスが発生(感染者22名・死亡者1名)したことから、衛生士ジョージ・ソーパーはメアリー・マローンが腸チフスの保菌者ではないかと疑いを持ちました。

腸チフスの保菌者であるかどうかは対象者の糞便を調べるとわかりますが、メアリー・マローンは自分に腸チフスの症状がないことから、保菌者であると認めず、検査を激しく拒否したため、強制的に身柄を確保され検査されました。

その結果、便から腸チフス菌が検出されたため、隔離入院することになりました。

腸チフスが検出されたのですが、メアリー・マローン本人は自覚症状がないため、不条理に隔離されたという思いが強く、人権を侵害されたと市衛生局を相手取り、訴訟を起こしましたが敗訴しました。

しかし訴訟には負けましたが、

・食品を扱う職業には就かないこと
・定期的にその居住地を明らかにすること

という2つの条件を了承するなら病院から出てもよいことになり、メアリーは自由の身になりました。

ところが同時に、メアリー・マローンは家政婦としては働いてはいけないという法律が多くの州で制定され、家政婦としては働くことができなくなった結果、メアリー・マローンは失踪します。

そして5年後、偽名を使って病院の料理人として働き25人の感染者と2人の死亡者を出したため、また隔離され、亡くなるまでの23年間そこから出ることはありませんでした。

さて、どうしてメアリーが腸チフスに感染しても発症していなかったかというと、胆嚢にしか感染していなかったからでした。

通常、体内に異物が入ると、好中球やマクロファージが分解し異物の情報をT細胞に示して免疫系が働き抗体ができて攻撃する仕組みが働くのですが、腸チフス菌はマクロファージの細胞内で、分解を逃れたまま全身に増殖します。

しかし、メアリー・マローンは腸チフス菌による感染が弱かったり、本人の免疫力が高かったりという理由で発症せず、そして腸チフス菌は胆汁を好むため胆汁を貯蔵する胆嚢で増殖を続けました。

腸チフス菌は胆汁に混ざって腸に排出されます。

腸から、便と一緒に排出されたチフス菌は、メアリー・マローンの手に付着し、料理に入り、47名の感染者と3名の死者を出したのでした。

この話は、公衆衛生や、調理をする人への警鐘のエピソードとして有名で、話だけ聞くとメアリー・マローンは悪い人に思えます。

しかし、実は当時、メアリー・マローンのような腸チフス菌の不顕性感染者は100~200人ほどいたにもかかわらず、隔離されたのはメアリー・マローンだけでした。

その理由が、メアリー・マローンがアイルランド系移民だったことによる差別からという説があり、そう考えるとメアリー・マローンが不条理に自由を奪われたと感じたのも少し納得できるような気がします。

しかし、自覚症状がなくても自分が料理をすることで周りの人が病気になるのなら、やはり料理をする仕事はしないほうがいいと思うのですが、14歳で移住して料理をすることでしか生計を立てることができなかったであろうメアリー・マローンには、何らかの手助けが必要だったように思えます。